三勢力 · 2018/03/11
 古代の日本には三つの勢力があったと思われます。第一の勢力はこの日本の地に古くから居て、縄文の文化に融合した安(阿)曇に代表される海人族と言われる人々です。「魏略」に      “聞其旧語 自謂太伯之後” 「其の旧話を聞くに、自らを太伯の後と謂う」とあるように、太伯は紀元前十一、二世紀の人物でその末裔となれば、日本の地で何百年もかけて縄文の文化と融合していったと思われます。倭人と呼ばれる人々で魏志東夷伝倭人条にいう奴国に代表される彌奴國、華奴蘇奴國、鬼奴国、烏奴国など奴の付く国々を形成していたのではないでしょうか。

糟屋の屯倉 · 2018/03/07
「糟屋屯倉(かすやのみやけ)は、古墳時代の筑紫国にあった屯倉。現在の福岡県糟屋郡(福岡市東区を含むと思われます[ブログ作成者加筆])付近と推測される。継体天皇二一年(五二七年)、筑紫国造磐井が反乱を起こしたが、翌年の継体天皇二二年(五二八年)一一月に物部麁鹿火によって鎮圧された。磐井の子葛子は、父に連座して誅せられることをおそれて、この屯倉を献上し死罪を免ぜられたという。」ウィキペディアにはこのようにありますが、ここでは疑問が二つあります。

極南界 · 2018/03/05
 後漢書に「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」とあり、極南界を奴国は倭国の南端にあると解釈する説がありますが、それでは光武帝から金印を下賜される理由が分かりません。極南界を九州の南の太平洋を極めていて、その情報を光武帝に知らせたと考えれば、金印を下賜される理由が分かると思います。

聖徳太子 · 2018/03/01
日本で偉人と伝わる聖徳太子はいったいどんな人だったのでしょうか。今では実在しなかったという説がありますが、厩戸皇子、豊聡耳皇子、阿毎多利思北孤等の名を持つ人物で超人的な能力を有すると伝えられてきました。私は厩戸皇子はニニギの命から続く近畿に居た人物だと思います。また豊聡耳皇子は名前から考えると豊国の王の子で、現在の福岡か大分に居た人物と考えられます。阿毎多利思北孤は遣隋使を派遣した倭国の王で九州の大宰府に居たと思います。これら三人を一人にまとめたのが聖徳太子ではないでしょうか。

太宰府 · 2018/02/27
 大宰府は古い時代から大和朝廷の出先機関だったのでしょうか。大宰府は「大王之遠乃朝廷」と呼ばれていました。これは5世紀の倭の五王時代、倭王武が「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となった時、倭国だけにとどまらず東夷の大王になり、大宰府に朝廷を立てたのではないでしょうか。それが大宰府の最初だと思います。

倭国 · 2018/02/27
 倭国は最初紀元前に海人族として現中国の南方から渡来し、縄文の文化と融合していた人たちが作った阿曇族に代表される国々の連合だったと思います。邪馬臺国の時代に奴国を中心とした彌奴国、姐奴国など、「奴」を国名にもつ国々の連合で、現在の地名に鹿、志賀などの字が付く場所にあったのではないでしょうか。  一方日本国は倭人よりずっと後に徐福に率いられてやって来た人々の国で、現在日置、日枝、日吉などの地名を残す場所に日木(邪馬)国連合としてあったと思います。

神武天皇 · 2018/02/22
 私は神武天皇が奈良の橿原の地へ東征したことには疑問を持っています。古事記(稗田阿礼を日枝阿礼と考えると、日枝である日木族の歴史が基になっている)には東へ行くと言っただけで、奈良の地へ行ったように示しているのは日本書紀です。東の字を分解すると日木に分解することができ、神武天皇が東征した地は日木の地であり、そこにニギハヤヒ(日木早人、日木族で早くからいる人の意)が居たということだと思います。神武天皇はニニギノミコトの子孫であり、ニニギは日日木とも書くことができ、ニギハヤヒ達よりも後にこの日本の地に来た日木族だったと思います。

邪馬臺国 · 2018/02/22
 魏志倭人伝(東夷伝倭人条)に云う邪馬臺国は邪馬国(日木国)連合と臺国(倭国)連合の大連合国家であったと思います。また邪馬臺国は末盧国、伊都国、奴国、不弥国等の様に独立した国ではなく、これらの国と倭人伝に記載の遠くにあって国名だけしか分からない斯馬国、己百支国等の二十一カ国を合わせた国々全体を指して邪馬臺国と呼んだと思います。例えば現在のヨーロッパのEUの様なゆるやかな連合国を形成していたと考えられます。