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糟屋の屯倉とは?

 

糟屋屯倉(かすやのみやけ)は、古墳時代の筑紫国にあった屯倉。現在の福岡県糟屋郡付近と推測される。継体天皇二一年(五二七年)、筑紫国造磐井が反乱を起こしたが、翌年の継体天皇二二年(五二八年)一一月に物部麁鹿火によって鎮圧された。磐井の子葛子は、父に連座して誅せられることをおそれて、この屯倉を献上し死罪を免ぜられたという。

ウィキペディアにはこのようにありますが、ここでは疑問が二つあります。第一は磐井が反乱を起こしたと書かれていますが、私は違う考えを持っています。(ブログ内「太宰府」に理由を書いています)第二はこの屯倉(糟屋屯倉)を献上とありますが、この書き方から考えると元々屯倉だったものを献上したと書かれているように考えられます。本来ならば粕屋の地を献上され屯倉としたと表示するべきではないでしょうか。私は糟屋(福岡市東区を含む)の地は元から屯倉であって、それは筑紫に本拠を持つ倭国の朝廷である遠(東夷とおい)の朝廷の直轄地だったのではないかと考えています。 また妙心寺の梵鐘の記念銘に

戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連廣國杜寿鍾

とあり六九八年に糟屋評(糟屋郡)で舂米連廣國によって造られたと書かれています。多々良(昔、蹈鞴があったと思われます)川の下流には香椎宮があり上流には若杉山があります。若杉山からは木材を切り出し船(主に軍船)を造り、多々良川の下流では梵鐘を造った場所で武器や農具などを作っていたと思われ、それらを貯蔵する倉庫群があった場所が糟屋屯倉と呼ばれていたと考えられます。

 邪馬臺国の記事で述べていますが、私は卑弥呼が居た場所は不弥国で香椎を中心とした所だと考えています。また、神武天皇の記事で述べているように香椎が本来の神武東征の地であるならば、この香椎の地は大変重要な地ということになります。磐井の時代には政治権力は大宰府や筑後の方へ移っていたと思われますが、継体天皇が象徴的にどうしても欲しかった所が糟屋屯倉だったのではないでしょうか。

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