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大連合の国「邪馬臺国」

 魏志倭人伝(東夷伝倭人条)に云う邪馬臺国は邪馬国(日木国)連合と臺国(倭国)連合の大連合国家であったと思います。また邪馬臺国は末盧国、伊都国、奴国、不弥国等の様に独立した国ではなく、これらの国と倭人伝に記載の遠くにあって国名だけしか分からない斯馬国、己百支国等の二十一カ国を合わせた国々全体を指して邪馬臺国と呼んだと思います。例えば現在のヨーロッパのEUの様なゆるやかな連合国を形成していたと考えられます。倭人伝に云うように魏の使いは不弥国にまでしか行っておらず、そこで女王卑弥呼に謁見したと解釈できるので卑弥呼は不弥国に居たと考えられます。多くの方は不弥国よりも先の投馬國を経由して邪馬壹國に辿り着いたと考えておられると思いますが、魏志倭人伝に云う不弥国の後の行程である

南至投馬國、水行二十曰云々、南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月云々

は、不弥国までとは書き方が違って里程がありません。投馬國、邪馬壹國は不弥国を出発して辿り着いたのではなく、最初の出発地である帯方郡を発つ時の方角と所要日数を書き示したものと解釈できます。そこで不弥国はどこなのかと言うと私は香椎を中心とした福岡県の旧糟屋郡ではないかと考えています。香椎宮に大帯日売の伝承がありますが、オオタラシのタラシをタイ(帯)と読めばタイ(臺、大委)国の姫と考えられ、卑弥呼は国内ではタイ姫と呼ばれていたと思います。

 一世紀に漢委奴國王の金印をもらった奴国ですが、この奴国の奴の字はドまたはドンと呼んだ方が良いと思います。当時このあたりでは勢力があった安曇族が中心となっていて、曇という字はドンと呼びこの名を国名として委奴と使用していたのではないでしょうか。また委はワとは呼ばずイと呼んでいたと思います。金印をもらった後の王は倭王帥升で、帥という字はヒキと呼ぶ事ができ日木族の王だったと考えられます。この時代から安曇族と日木族は一緒に国を作っていたのではないでしょうか。

 ではその日木国について説明をしたいと思います。日木族は紀元前三世紀に徐福によって率いられて来た人々で、三千という人数を越えていたので何十か所にも分かれて入植したと考えられます。もちろん朝鮮半島にも辿り着いた人々がいたと思います。その入植地は今徐福伝承の地と言われるところはもちろんですが、私は日木地ということで日吉、日枝神社(大山咋神を祀ってあり山を重視している)がある所ではないかと思います。また大きい地名では出雲ですが、日木を朝鮮半島風の読みをすれば日(イル)木(モ)となりイルモはイズモと呼べると思います。また紀伊ですが日木を逆に読むと木日(キヒがキイ)となると思います。また日置、比企、部木等もヘキやヒキと呼びこれらの地名の場所も入植地と思われます。ただし私は三世紀の邪馬臺国の領域は現在の福岡県と佐賀県と大分県くらいの広さだと考えていますので、出雲や紀伊は当時の邪馬臺国を構成する国には入らないと思います。

 

 臺国についてですが、臺国は漢委奴國王から続く安曇族(海人族)を中心とする国で一世紀では委と言っていたものが、壹(イ)となりその後国が大きくなって大委(タイ)または大壹(タイ)となり臺国となったと考えられます。またの名を倭人の国であることから倭(ワ)国と言ったのかも知れません。またタイという同じ呼び方から考えるとその名は七世紀の阿毎多利思北孤の俀国まで続いたと思われます。邪馬臺国時代国名だけしか分からない国々で彌奴国、 姐奴国、蘇奴国、 華奴蘇奴国、鬼奴国、 奴国など奴の付く国々は奴国と同様安曇族と同族の海人族で臺国(倭国)連合であったと思います。この様に考えると邪馬臺国は邪馬国(日木国)連合と臺国(倭国)連合の大連合国家であったと思います。


 次に邪馬臺国の領域ですが倭人伝に名前だけの国として最後に奴国がもう一度出てきます(次有奴國 此女王境界所盡)。その国が分かれば領域の南の端が分かるのではないでしょうか、私はその奴国は福岡県大川市にある風浪宮を中心とした国ではなかったかと考えています。最初に出てくる奴国にある志賀海神社も大川市の風浪宮も安曇磯良を祀った神社であり、最後の奴国は最初の奴国の分家的な存在だったと思います。狗奴国も卑弥呼の時代は敵対していました(其南有狗奴國云々、不屬女王)が安曇族とは同族であったはずです。風浪宮があった最後の奴国が女王国の境界が尽きる所と思われ、その南(熊本県の山鹿、菊池あたり)に狗奴国があったと考える事ができます。

 

 卑弥呼が亡くなった後男王が立ったが国中が従わなかった(更立男王 國中不服)は、日木国(邪馬国)出身の男王には縄文から女王を重視してきた臺国(倭国)の人々は納得できなかったと思われます。私は日木国の中心は豊の国(福岡県の旧京都郡)ではないかと考えており、卑弥呼の宗女である臺与(トヨ)を豊の国へ送ることにより後に争いが収まったと思います(豊の国の豊も宗女である臺与から付いた名と考えられます)。しかしこれをきっかけとして邪馬臺国は求心力を失い、この国の中心は二つに分かれ豊の国(日木国)の旧京都郡ともう一方の倭国(臺国)の中心が香椎から太宰府へと移って行ったと思います。この後日木国の中心は近畿に移り山を重視する人の意味で大和(ヤマト・山人)となり、最終的には山背の地である京都へ移り住んだと考えられます。一方倭国は大宰府を中心として発展し(一部近畿では奈良地方へ移る)政権は保持していたと考えられますが、白村江の戦いで倭国が敗北すると日木国(大和)を中心とした政権に移って行ったと思われます。近畿地方での政権の移行は乙巳の変の時だったのではないでしょうか。これが日本の始まりと考えます。

 倭国(安曇族・海人族)が日木(大和・山を重視する勢力)に敗北したことを象徴する物語として、海幸山幸の話があります。この物語は兄である海幸彦が弟の山幸彦に敗れ忠誠を誓わせられるというものです。これは早くからこの地に居て政権を持っていた安曇族(倭国)から大和に政権が移った事を象徴していると考えられます。

 次に桃太郎の物語に移りますが、この話は大和朝廷が政権を取った事を寓話にした物語であると考えています。桃太郎の家来になった犬・猿・キジが何を象徴しているかを考えました。まず犬の意味を考えた時、頭に浮かんだのは隼人族が犬と呼ばれていたのを思い出し、大和朝廷が敵対していた隼人族を家来にしたのだと考えました。隼人族は薩摩を本拠地にしており、そこは鹿児島です。鹿児島の字は鹿島(しかしま)の児(子)と解釈でき、その事は安曇族の本拠地であり志賀海神社がある志賀島(福岡)の子孫と考えられます。

 次に猿は何を意味しているか考えると、猿を神の使いとしている神社は日吉大社であることから、猿は日木族を象徴していると考えられます。これら犬・猿の事から大和朝廷が邪馬臺国の構成部族である安曇族と日木族を従えた事を象徴していると考えられます。

 次にキジですが、これが何を意味しているのかが大変難しい問題でした。キジと関係のある神社は見当たりませんでした。鳩ならば八幡宮にいます。しかし千年以上も前には今の鳩はいなかった、昔居たのはキジ鳩だったのではと思い当たりました。こう考えるとキジは鳩の事で鳩は戦の神様である八幡宮を象徴し、大和朝廷の軍隊だったという思いに至りました。またそれは邪馬臺国の時代には無かった勢力で吉備(キビ・日木族)を中心に主に九州以外の人々を結集した勢力だったと考えられます。

 

桃太郎に関しては奈良の纒向の地から多量の桃の種が出土しているのは気になる所です。九州の倭国(安曇族)の中心である太宰府を討つために結集した場所ではないでしょうか。

 大和朝廷の征夷大将軍から討伐を受けた蝦夷の蝦という字は、第一の意味はエビですが第二の意味としてカエル(ヒキガエル)があり、これはヒキというところから日木族を表していると考えられます。また夷という字はエミシと呼ばれますが、エビスとも言われます。発音はイであり漢委奴國王の委と同じ発音である事から安曇族を表していると推測できます。このエビスという意味からも、七福神の一人で唯一の日本の神様であるエビス様(タイを抱えている)のことであり、これは安曇族が日本で最も古くから居る集団である事を表していると考えられます。蝦夷という字は日木族と安曇族で構成されているので、邪馬臺国と同じ構成になっている事を表しています。これらの事から政権を失って大和朝廷から追われた倭国(安曇族)の中に当初邪馬臺国時代には協力して政権を担っていた日木族の一部が含まれていたと考えられます。

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